2022,05,24, Tuesday
着物姿に欠かせない帯。代表的な結び方といえば「
お太鼓結び」
着物に携わっていながら恥ずかしいことに
名前の由来を知りませんでした。
丸い太鼓を背負っているみたいだから?と何となく思っていましたが。
先日5/3の朝日新聞記事に答えが載っていましたので紹介します。
記事の最後に
「
1817年に亀戸天神の赤い太鼓橋が再建された時、渡り初めに招かれた深川芸者たちが、これまでにない帯の締め方で勢ぞろいして江戸っ子の喝采を浴びた。それがお太鼓結び」と紹介されています。
いや、知りませんでした(^^;)
1817年といえば明治維新まであと約50年。江戸時代も後期。
きっちり線引きはできないものの、戦国時代終わりから江戸初期にかけて小袖が着物の主役となるにつれ帯は
実用的な細帯から
装飾的な幅の広い帯へと発達していきました。
参考までに江戸の帯結びがどんな感じだったか、
鳥居清長(1752~1815)の浮世絵美人画をご覧ください。
清長はお太鼓結びが登場するより前の時代の浮世絵師です。

遊女と禿。元旦の晴れ着で勢ぞろいしているところ。
江戸時代を通じて
帯は前結びと後ろ結びが混在し、花柳界では前結びが多く
武家社会や労働する女性の間では後ろ結びが多かったと一般的に考えられています。
こちらは大奥の元旦行事。後ろで文庫結びにした上から打掛を羽織っています。
後ろで結ぶ場合でも蝶結び系の「お文庫結び」などでした。

一般女性。振袖の若い女性は後ろで、貫禄のある成人女性は前で帯結び。
前結びにしろ後ろ結びにしろ帯はダラリ結びや蝶結びが多かった江戸時代。そこへ
芸者衆がお太鼓結びで橋の渡り初めに勢ぞろいしたら確かに目を引いたことでしょう。結び目を帯自体で隠して、左右の手先も垂らさずに四角い太鼓の中に隠してしまう「お太鼓結び」は
しゃっきり小さく粋に見えたと思われます。
さてこの記事、主眼は帯結びではなく太鼓橋の方。
歌川広重の「名所江戸百景」はゴッホや印象派の画家たちに影響を与えたのは有名ですが、モネが描いた睡蓮の作品群に登場する太鼓橋は、彼が自宅の庭に日本風に作らせたもので、
名所江戸百景の中の亀戸天神の太鼓橋がモデルだというお話なのです。
新聞は白黒印刷なので、記事中の「亀戸天神」と「睡蓮」のカラーでどうぞ。

亀戸天神の太鼓橋

モネの睡蓮
「睡蓮」はたくさんありますが、この作品は明るい色調で水と光が描かれていて程よく写実的。とても美しい絵だと思います。箱根の
ポーラ美術館の所蔵。今展示中だそうですよ。
着物あれこれ | 10:12 PM
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2022,04,30, Saturday
昭和の豪華な振袖
この着物ブログは幅広く着物、着る物について話題にしておりますが、今日はテレビで見かけた「昭和の手描き友禅の振袖」を紹介します。(画像はテレビからお借りしています)

NHK BSプレミアムで毎朝7時30分から昔の朝の
連ドラを再放送しています。現在の「芋たこなんきん」は、
小説家、田辺聖子さんの生涯をモデルにしたドラマで、大変評判のよい放送だったと思いますが、当時見られなかったので今回は録画しながら、楽しく観ております。
中年になってから恋愛結婚した主人公。
披露宴で着た振袖が素晴らしい手仕事の友禅染でした。
ドラマの舞台は1960年ごろ。高度経済成長期で、着物の生産、消費はたいへん活発でした。
主人公は芥川賞作家、売れっ子小説家だったので、お色直し衣装は豪華な柄行きの友禅の振袖となったのでしょう。
披露宴が済んで家族だけになりくつろいている場面。

手描き友禅独特の柄置きです。
上前(左胸)にタップリ模様を置き、下前(右胸)は無地です。
このように左右で差をつけると、どんなに豪華な柄行きでも
落ち着きが出て上品な着物姿になります。一種の
「様式美」ですね。

当時、白地の着物が流行したと、年配の呉服屋さんから聞いております。美智子様がご結婚の時期に白地に模様を描いた着物をお召しになったことがきっかけだそうです。
一家がお茶している居間も昭和博物館のようですね。
卓袱台の上に急須、タンスの上に仏壇。
それから!右端の座っている女性は主人公の母親で、来ている黒留袖が現代のものより裾模様が地味です。模様の量も色目も年齢に合わせてかなり控え目でした。

疲れ果てて着替えもせずに布団にひっくり返った主人公。光の加減で絹生地に
沙綾形の地紋が浮き出て、さらに豪華に見えますね。

少々無理にズームしてみた模様部分。
真糊(餅粉と糠で作った糊)で糸目糊をおき、手仕事で色挿しした振袖だと分かります。糸目糊のあとには、真糊独特の透明感があります。

糸目の上の金線も手仕事です。
白地にくっきりと濃いめの色合いで一面の花。あまり色をぼかさない色挿しであること、ドラマは大阪を舞台にしていることから、この
振袖は京友禅ですね。
着物あれこれ | 11:30 PM
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2021,10,03, Sunday
山形県鶴岡市の
致道(ちどう)
博物館を見学する機会がありました。
旧庄内藩の文化、産業、建築の伝承のために1950年に設立され、市中心の広い敷地に移築された保存建物が点在し、
農具、漁具(船も)、生活用品などが展示されていました。とてもとても面白かったですよ!

敷地内で必見なのは、
「旧渋谷家住宅」
合掌造りのような
多層民家です。感激したのは、
建物内に民具類が展示されていることです。
あるべき物があるべき場所に。同じ道具でも資料館の所蔵品として展示ケースのガラス越しに見るのとは迫力が違いました。
寝室に相当する小部屋。
左上の窓から光が差し込み、和風フェルメールの絵になっていました。
「掻い巻き」という着物の形の布団が、
敷いてあるもの、
壁に吊ってあるもの、脇に
畳んであるもの、とリアルです。
糊防染の藍染なので手描友禅の仲間。厚みがあり、くるまれば暖かそう。右下に
丸太が見えますが、
枕替わりだったそうですよ!
作業部屋に
織り機が並んでいました。

奥から、
「シナオリ」科の木(しなのき)の皮から作った繊維を糸状にして織る。
「オロコギ」和紙を裂いて木綿糸と共に撚りをかけた糸で織る。
「サキオリ」裂織。裂いた古木綿を小撚りした糸で織る。
お気づきでしょうか。
すべて
今なら捨てられてしまう材料ばかりです。
シナオリでは
木の皮を水に晒したり煮たりして繊維を細くして糸にするそうです。
オロコギは
使用済の和紙と木綿の再利用。
サキオリはもとの
古木綿の色合いを利用して模様織りが出来るようでした。
別棟の展示室には保存状態のよい完成品もありました。
(こちらはガラス越し展示)

オロコギ 軽くて丈夫。防寒の仕事着。

サキオリ 厚くて丈夫。漁師の防寒着。
元の古木綿の色で縞模様になっています。

こちらは庄内地方以外でも一般的な
木綿の刺し子。古布、古糸の結晶ですが、結果として優れたデザインですね。傷みやすい衿回りは
布を重ねて補強しているように見えました。
木綿が大量に生産、流通するようになるまで、布、糸はたいへん貴重なものでしたから、
傷んだら解き、良いとこ取りして仕立て直し、最後は繊維を撚ってさらに糸にして再利用しつくしたと、聞いてはいましたが、本物の織機や布を見るのは初めてでした。
ちなみに、荘内は絹の産地でしたが、ここで見る庶民の暮らしにはまったく登場しません。絹糸は生産するだけで、着る物ではなかった時代が長かったのですね。
最後に一枚。
羽越本線の車窓から見た荘内の空。向うは日本海。
関東で見る空と違い、雲が多重で豪快。水蒸気量が多いのでしょうか。
まるで教会の天井画のようでした。雲の上から天使がこちらを覗いているような、天から光が降ってくるような。
着物あれこれ | 06:30 PM
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2019,08,31, Saturday
上野の国立博物館で、
今は珍しくなった着物を見ました。
絽の着物と
紋付の産着です。

縹地 海辺風景 単衣 19世紀江戸時代
絽は透けるように織った夏用の絹地。
見るからに涼し気な紺色の夏の着物です。
刺繍も使われていますが、一番重要な模様である
浜松は糸目糊で表現した友禅染です。
夏に透ける絽の着物でおしゃれしている方を、かつてはひと夏に数回は見かけたものですが、最近、とくに今年はゼロでした。
着物離れもとにかく……とにかく
夏が暑過ぎるからだと思います。
生地が透けているからこそ
下着をきちんと着る必要がありますし、
帯はどう着付けても暑い……。
同じ東アジア圏でも、帯のない形で着衣が発達した韓国のチマチョゴリが羨ましいですね。などと言うと帯の機屋さんに叱られてしまいますが(^^;)
地球温暖化で35度連発の今の夏では
熱中症対策が第一になってしまいました。
こちらは更に見かけることはなくなった
産着、それも紋付です。
サイズが大きく見えますが、おそらく誕生直後は肩上げを多くして赤ちゃんをくるむように使ったと思います。
今も最小限の肩上げが残っていますね。

薄茶平絹地 貝模様 産着 17世紀
1600年代作とのことですが、友禅の技術が確かなので後期の作でしょう。
背中央に一つ、両袖と両胸にも紋がある
五つ紋付きで最高格式の作りです。紋は縁を飾られた向い雀。綿入れ自体が贅沢品(綿が貴重)だったことを思えば、大変力の入った幼児用の着物です。
友禅特有の糊防染が効果的です。
模様にあまり色がなく、地色も薄茶なのは始めからそうデザインされたのでしょうか。
それとも江戸時代初期の作で非常に古いので退色?いえ専門家が見てタイトルに薄茶地といれているので始めから薄茶に染められたのですね。

紋が可愛く見えるような飾りつきなので女児用を思わせます。綿入れなので冬着なはずですが、海辺の貝の模様?ちょっと不思議な産着。由来を知りたいものです。
同じ江戸時代でも初期はまだ幕末期のようなカラフルな友禅染(後染め)は出来ませんでした。江戸中期以降に鮮やかな色合いの染料が日本にも入ってきて友禅染の発達を促したそうです。
今は子供の着物を手描き友禅で誂える話は
トンと聞かなくなりました(>_<)
残念ではあるものの、実は……
汚すのが仕事の幼児に目くじら立てずに済むように、
小さい間は化繊の着物でよいという意見に私も賛成です。
このような絹、友禅、綿入れの着物はお大名クラスか豪商、大地主などごく一部の人々のもので、一般の武士、商人はもっとささやか、庶民の子共は使い古しの木綿布子にくるまっていただけ。模様がないか古い絣か。
デパートの売り場で可愛い化繊のプリント柄の3才お祝い着を見ると、カラフルな着物を幼児に着せられる時代を有難く思います。
着物あれこれ | 10:39 AM
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2019,06,20, Thursday
2019年6月15日の朝日新聞の記事の紹介です。

手漉き和紙の製造に欠かせないトロロアオイを生産してくれる農家が、このままではいなくなってしまうという記事です。
和紙の原料のコウゾ。そのバラバラの繊維をまとめるのにトロロアオイから取る「ねり」が必須なのに、重労働のわりには高くは売れないことや農家の高齢化もあって、わずかに残ってくれていた生産農家が作付けを中止すると表明したのだそうです。
悲しいニュースです。農家のご事情も重々…
和紙は手描き友禅にも欠かせません。代表例では、
真糊(米粉と糠から作った糊)を絹地に引く時に使う道具、渋筒(しぶづつ)

上から伏せ糊用サイズの使い古し(繊維が強くまだまだ使えます)
伏せ糊用の新品、そして糸目糊用の新品。
使い古しの先端には口金がついています。新品も使う時の必要性に合わせて先端を切り口金を咬ませて使います。水分のある糊を常に一定の柔らかさ(含有水分)に保つのに厚い和紙で作られた筒が向いているのです。柿渋を塗って強度を高めているので渋筒と呼ばれています。
筒と一緒に写っているのは渋札(しぶふだ)
新品の先端を紙縒りして紐状にし、名前を書いて絹地の端に穴を開けて通しておきます。
蒸しや洗いといった他の業者さんにお願いする工程の時に迷子になるのを防ぎ、希望する作業内容も書いておきます。蒸気や水をくぐり抜け最後まで生地に付いていてくれるのは和紙だからです。

真糊による伏せ糊作業風景です。

渋筒が2本見えます。先端の太さを変えて糊を付けたいところの形状に合わせて使い分けます。霧吹きや水、濡れ布巾も、常に使いながら作業します。
そうそう!和紙といえば着物を保管する「たとう紙」も忘れてはいけないですね。湿度から守ってくれるのはもちろんですが、着物を包んだ状態で持ち運びのためにザックリと三つ折りにしても破れもせずに中の着物をシワシワから守ってくれるのは、やはり和紙だから。
記事によれば、和紙業界として文化庁に生産支援を求めているものの、「具体的対応は決まっていない」そうです。
ご存じの方も多いと思いますが、日本のお役所はまずこうした事に資金を出しません。
伝統文化、伝統工芸で、普通に民間任せにしていれば絶滅するだけというものに、遺す価値があるという共通理解が得られるなら、経済的な支援や、ドイツのマイスター制度のような制度的支援をすべきだと思うのですが。
日本の国の制度でそれらしい支援は、文楽や歌舞伎を下支えする人を養成する学校があることくらい。他はまったく…
天然素材だけで製造する手漉き和紙が失われたら…
室町以来の日本画の掛け軸や屏風など、100年から150年に一度は裏打ちの和紙を剥がして新しく貼り直さなければ、次世代に遺せないと聞いたことがあります。
日本の文化工芸の基礎のような手漉き和紙、無くなってよいと思う日本人はいないでしょうに!!
手描き友禅制作に必要な道具、材料でも危機に瀕しているものは沢山あります。
材料だけでなく生地や糸も。
裾回し(着物の裏地、八掛とも)の数少ない製造業者さんの一軒が廃業し、裾回しの品不足、品質劣化が懸念されるというニュースが友禅業界に届いたのはごく最近のことでした。
着物あれこれ | 11:39 AM
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2018,09,26, Wednesday
このブログの名前は「着物ブログ」
東京手描き友禅の作業や作品紹介と合わせ、和服に関わる事を幅広くご紹介しています。
が、今日は着物のそもそも、事始めのお話。
実はNHKの番組の紹介です。
9月18日NHK BS放送の「人類誕生 未来編 第3集」より
何が驚いたといって!
これは縫い針と縫い針保管用の筒型ケース

シベリア北極圏で約3万年前の遺跡から発掘されたもので、いずれも大型動物の骨から削り出し、磨いて作られているそうです。
縫い針を使えば毛皮を縫い合せて身体を隙間なく包む防寒着を作ることができます。

20万年ほど前にアフリカで生まれたホモサピエンスは、アラビア半島を経て4万年~3万年前頃には暖かい東南アジアまで広がり、南から日本列島にも到達したと分かっているそうです。
一方、北方寒冷地はサピエンスにとって不向きであったものの、中国大陸やシベリアにはマンモスやバイソンなど食料になる大型動物が多く、

しかも雪の上は足跡から動物を追いやすく狩猟に適していたので ホモサピエンスは防寒着を得ることで、食を求めて寒冷地へ、さらに極寒地に進出し、北側からも日本列島に到達したのだとか。なるほど…
最初は毛皮に穴を開けて頭を通すマント状だったことでしょう。
それではスース―するので紐(動植物の筋や根?)で胴を縛ったことでしょう。
さらに寒くなると毛皮で立体的に身体を包めたらいいなと思った誰かがいて、毛皮と毛皮を糸状の物で剥ぎ合せようと工夫した誰かがいて、
細い棒で紐や糸を通すことを始めた誰かがいて、そして
鋭い針を作り出した誰かがいたのですよね。
長い長い年月をかけて3万年前には今の毛皮コートと基本的に同じ機能の防寒着が作られていたなんて。

映像の針をよく見ると糸孔に大中小があるのです。
こういう針で縫えばこんな立派なコートを作れたはず、という映像。

着物、着る物、その一、でした!(^^)!
植物繊維や動物の毛を使って布が作られたのは、ずっと後、というより最近の事なのですよね、この時間軸で考えると。
参考→ 2018年3/18の当ブログ「サウジアラビア展」にて 紀元前後3世紀の布片を紹介しています。羊毛や麻で織り柄があります。土器石器とちがい大地に還りやすいので、最初の布が作られた時期は、専門家でも分からないことかと思います。
着物あれこれ | 06:42 PM
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