2023年11月

 
 
今放送中のNHK大河ドラマ「どうする家康」が佳境を迎えています。
頼りない若様だった家康が様々な辛酸を経て家臣に恵まれ天下を制していくストーリー。
年齢と共にずいぶん家康らしくなってきたな~と思いながら楽しんで観ております。

大河ドラマの衣装については素晴らしい、時代にも合っていると感心する場合と、時代的にあり得ない色や形で疑問符がつく場合とがありますが、今年の家康は前者。
特に後半になってからの家康の衣装が凝っています。


後ろ姿が家康。絞り染めの羽織です。


白地に模様を出すために糸で模様と地の間を縫い絞り、模様部分(内側)だけを彩色したり、墨の細い線で形をとった技法です。私は詳しくないのですが、安土桃山期から江戸初期の染めで「辻が花」と呼ばれる絞り染めの一つです。


徳川家の家紋である三つ葉葵紋が染め抜かれています。デザインもお洒落で、作成にあたり具体的な参考例があったのでしょうか。

上野の東京国立博物館の常設展示で見たことのある家康の羽織をご紹介します。


展示の解説によれば、千葉県行徳の鷹師、荒井源左衛門が家康から拝領したものと伝わる羽織。背紋は丸枠の中に三つの「三つ葉葵紋」で凝っています。


あまり退色せず綺麗な状態です。鷹狩が好きだった家康。よい仕事をした鷹匠に衣服を与え、鷹匠の子孫が大切に保存してきた様子ですね。


雰囲気がよく似ているので、テレビに登場する羽織は現存する羽織を参考にして制作されたのかもしれませんね。

テレビ画像に戻って、

写真では分かり難いのですが、家臣たちの衣装は家康の羽織より単純な柄ながら絞りが多く「本当にこんな感じの姿だったのかもしれないな」と思わせられました。

着物あれこれ | 11:08 PM | comments (x) | trackback (x)
前回お勧めしたTV番組「ロイヤルミステリー皇后のドレスの謎」で取り上げられた明治時代の大礼服ドレスを、放送内容もとても興味深かったのでテレビ画像をお借りして紹介いたします。




長い裾を引くデザインで当時流行のバッスルスタイルという高い後ろ腰が特長です。


模様はすべてバラ。織り方の種類を変えてバラの濃淡と立体感を表現し、さらに精巧な刺繍を加えるという高度な技術の織物だ説明がありました。


このドレスは明治時代の最高礼装で、明治天皇の妻、美子皇后が着用したもの。京都の大聖寺に保管されていましたが、経年劣化がひどく修複することとなり、初めてドレスを解いたところ、ヨーロッパ製と思われていたドレス生地が実は国産だと分かり、その検証過程を紹介する番組でした。

修復前。きれいに見えても生地が擦れ、刺繍も解けたり崩れたりしています。


なぜ国産と分かったかというと、ほどいた生地の裏に刺繍を支えるための当て紙として和紙が使われていたから。

ドレスを解くと生地の裏側に、厚い刺繍で生地が歪まないように裏打ちとして使われていたそうなのです。


拡大しますと、


和紙は再利用紙で、「遣拂帳」(つかい払い帳」と書かれている紙も。今でいう経理台帳だそうです。


他に天竜、造船所などの言葉も。軍艦天竜は大阪の造船所で明治16年(1883)に完成していることから、このドレスの制作年代は天竜完成からバッスルスタイルの流行が終わる明治23年(1890)の間と判明したそうです。
日本では古来、紙の再利用は広く行われていたと言われていますね。古い襖を貼り替えようと剥がしたら、裏打ちに商家の大福帳が出てきたなどなど。

和紙は裏打ち以外にも使われていました。

傷んだ金モールとラメの刺繍
厚みを出すために刺繍糸と生地の間に挿んで使われた素材は泥紙(どろがみ)と呼ばれる反故紙(ほごし) 古い紙を漉き返し、砕いた泥や木の皮を漉き込んだ分厚い紙でした。

泥紙は防湿防水に優れ丈夫で、刺繍の形に合わせてカットできるので、江戸時代から厚みのある刺繍で使われてきたと刺繍の専門家の説明がありました。何といっても針の通りが良いので刺繍に使いやすいとのこと。先人の知恵ですね!
厚みのある刺繍といえばお相撲さんの化粧まわしが思い浮かびます。他にも歌舞伎の衣装やお祭りの幔幕にもありそうですね。

動かしがたい証拠が出てこの生地は日本製だということは分かった、では誰がこれほどの織物を作り上げたのか。
放送では
明治11年からフランス、リヨンに留学、明治15年にリヨン織物学校を卒業した近藤徳太郎氏が技術指導者として関わったとしています。
彼は京都出身。首都が東京になり織物産業は危機に面した京都、西陣から大勢の若者がリヨンに留学したそうです。明治維新からわずか10年後に日本が技術留学生を送り出していたとは知りませんでした。23歳でのリヨン行き。若いですが、当時職人の世界は遅くても15歳位で働きしますから彼もきっと日本の技術は一通り身に付けてからの留学だったと思われます。
日本の近代化を進める資金の多くを稼ぎ出したのは、絹糸の輸出だと教科書にも載っている事ですが、糸ばかりでなく自国で高級な絹製品を作ることを、ごく初期の頃から目指していたとは知りませんでした。



  色だけでなく織り方の変化で遠近をつけた技術



近藤氏は留学から戻ると渋沢栄一が設立した京都織物株式会社で技術者として働き、この会社は美子皇后の住んだ明治宮殿の内装織物を請け負っていた関係から、皇后の衣服のための生地を織って納めたことは十分あり得るというのが番組の筋立てでした。
明治20年ごろ(1880年代の終わり頃)すでにリヨンに引けを取らない織物技術が日本にはあったということです。
このドレス生地の写真を見せられたリヨンの技術者が、織りの技術の高さに「これはリヨン製に間違いない」と言い切る場面もありました。
 
近藤氏はその後長く技術者として足利で活躍していて、明治28年に織物技術の学校として創立された現在の栃木県立足利工業高校に保管されている彼の履歴書が紹介されていました。
桐生など群馬、栃木の一帯は養蚕、繊維工業で栄えておりましたから、足利もその一部だったのですね。
番組では美子皇后が洋装の普及や繊維産業の発展に寄与したことも取り上げられていました。前述の京都織物株式会社には多額の寄付を行った記録もあるそうです。
そういえば、前の皇后、美智子様がお召しになる服はすべて国産だという報道を聞いたことがあります。

火縄銃もそうでしたが、かつての日本人は何でも自分たちで作れるようになろうという精神に溢れていたのですね!(今は?…)

番組で1880年代と思われる貴重な写真も紹介されていました。
染織の工場。教科書風に言えば「マニュファクチャーの現場写真」です。

刺繍


織物


染色


この染色の写真は驚きです!
刺繍と織物には女性も写っているのに、この引き染め工場は男性ばかり!それに着流し姿で刷毛を使っています。さすがに着物の袖は襷掛けしているようですが、裾長の着流しで働くというのは現代から見ると異様ですね。男性なら裾をからげる(はしょる)か、または野良着のように短い着物と股引で働くものだと思っていました。
知らない事を色々教えてくれた番組でした。感謝。

着物あれこれ | 11:39 PM | comments (x) | trackback (x)
 

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